10 years after

10年前
当時僕は並木橋の壁の黄ばんだオフィスで、今となっては上場したとある事業会社の下っ端としてコンテンツ更新をしたりたまにデザインしたりするよくわからないポジションの仕事をしていた。
これがすごくやりたいわけではないし、チャンスがあるようでない、頑張り方がわからない、暗中模索の真っ最中。
そろそろ他の町に住んでみたいと実家を出たばかりで金もなく、楽しみといえばラジオとたまにある友達のライブに行くことくらい。毎日が生きることで必死だった。

そんな時にあの揺れが起こった。
入ってきた地震の規模を伝える数字に驚愕し、隣の席の同僚がつけたワンセグの小さい画面で街が波にのまれていく映像を見ても、現実のこととは到底受け止められなかった。
とんでもないことが起きている。
あわてて外に出ると明治通りは人で溢れていて、建設中のヒカリエの上に乗ったクレーン車が落ちそうなくらい揺れていた。
キリのいいところで帰っていいよと言われ、こんな時に売れるはずがないだろと思いながら適当に週末分の更新作業をして、渋谷から歩いて世田谷の自宅までとぼとぼ歩いて帰り、同棲していた彼女(今の奥さん)の帰りを待った。
木造アパートのメゾネットの上で寝ていたので、余震が怖くてしばらく下のリビングに布団を引いて寝ていた。

翌日スーパーにいくと備蓄用の食料が無くなっていて、少しずつ世界が変わっていくのを感じた。
福島原発が水素爆発を起こし、計画停電が実施された。
電気が使えない中、暗い部屋の中で彼女がつくってくれたおにぎりを2人で毛布にくるまって食べた。
やがて日本はチェルノブイリになって東京に住めなくなるという説が流れ始める。
清志郎さんやヒロトが歌っていたから原発のことは知っていたけど、自分ごとに考えていなかったことを後悔した。
放射能という見えない敵と戦うのはコロナに似ているけど、目の前の食べ物や空気が安全かどうかわからないのは想像できないほど怖かった。
原発ほど世の中を分断したものはないと思う。
震災の話はいつのまにか原発の是非に発展し、TPP、安保法制、改憲、政権批判へと変わっていく。
それでも上がらない投票率にジレンマを覚える。
ただ今では野菜の産地を選ぶように、発電の種類で電力が選べるようになった。

自分が指針にしている人たちはどんどん支援のアクションを起こしていった。物資を集め、曲を作り、プロジェクトを設計する。
陸前高田、南相馬、宮古、女川、南三陸、塩竈、知らない土地の名前をどんどん覚えていった。
大好きなバンドが解散して、解散したと思っていたバンドが復活した。
一言もMCを話さなかった人が話すようになった。

この時ずっと思っていたのは、そんなクリエイター達に対し、何もできない自分の劣等感だった。
災害関連の電子書籍アプリを会社で作って無料配布したくらいで、体力はあってもボランティアに行くお金もない、アイデアはあっても協力してくれる人もいない、そんな現状に対する想いや将来への不安が積み重なってか、一か月後ストレス障害になり、精神科に駆け込むことになる。
しばらくはそんな精神状態を誤魔化すように、友達のライブやレコーディングに遊びにいくことで気を紛らわしていてとても遠い被災地のために何かできるような状態ではなかった。あの時受け入れてくれた友人には本当に感謝している。
不安を払拭するように無心で手を動かして、とあるコンペで入賞することができ、それが少しの自信につながっていった。
日の丸をデザインに使ったのはこの年だけだ。

数ヶ月後、無事転職が決まり、その仕事を辞めた。
人の本性というものは緊急時ににでてくるもので、当時社長が従業員に吐いた言葉や行動とかは許せるものでは到底なく今でも忘れていない。
こんなところで死んでたまるかという思いだった。

三か月後に友人のバンドのドライバーとしてハイエースで仙台へ行った。
オールナイトのライブイベントに出演したのを見届け、その時は弾丸で帰ってきてしまったけど本当は海岸の方を観に行きたいんだよなと思いながら帰ってきた。
一年後仙台に行き、ちゃんと被災地を見に行った。
奥さんのアパレル時代の同僚を訪ね、当時の話を聞き、亡くなった人から電話が鳴ることや、いるはずのない人影を見た話が頻出していることを聞いた。
まだ死んだことが自分でわかっていない人が沢山いる。瓦礫だらけの石巻の海岸線を走っていると彼が育てたであろう仏花でいっぱいだった。
喪失が自分の体を飲み込んでいって涙が止まらなかった。
映像で見るより自分が想像していたのよりも何倍もすごい世界だった。
なんでこの人たちがこんな目に合わなきゃいけないんだろう、帰りの新幹線でずっと考えていた。
その時から毎月、給料から小額だけど決まった額をとある場所に寄付するようになった。

そして10年経ち、幸い僕はまだ生きていて、あの時アクションを起こしていた人たちとほぼ同じ年齢になった。
自分はキャリアが人より3年遅れていると思っているけど、今なら有事にも人に何か貸せる力はついたのかなと思う。
思えばこの10年の根幹にあるのは、当時感じていたあの劣等感を払拭するように生きてきた。
あの頃の自分に言いたいのは、もう少しすれば4年後にやりたかったことができるようになるし、素晴らしい人たちとの出会いもある。
守るものが増えていくからそれを忘れるなと。
いつかまた、子供を連れて東北に行きたいと、東京からそんな風に願いながら今日を過ごしました。

2021.03.11

カテゴリー: Days