2022→2023

家族が寝静まったリビングで1人ソファに寝転がりながらここ一年のインスタストーリーをざっと見て、なんだ楽しそうにやってるなと少し安堵した。一年前に比べれば、少しは自分を褒めてもいいのかなと思う。snsをやっている利点として自分のログを振り返れるところにある。呟いているのは過去のことだけど、もしかしたら未来の自分に向けて投げかけているのかもしれない。フォロワーに利益のあるツイートだけに振り切れないのはこういうとこに理由がある。

奇しくも娘の卒業→入学と同じタイミングになった転職という山場があり、新しい仲間たちと共に心血を注ぐ仕事を通して、まずは一定の信頼を作ることができた。クライアントと社内の評価だけ上げていればいいということではないのが、この仕事の難しい所だけど、こんな仕事の仕方がしたかったんだと、これまでにないくらい自分の魂が震えるような物作りでの瞬間があったことが何より嬉しかった。自分はこういう瞬間を探して、デザインをしてきたのだとすら思えた。これから見えてきた課題をクリアするための仕組みづくりをしないといけないのは明確に見えているけれど、自分の選択は正しかったと一年前の自分に胸を張って言える。いい状況が作れるチャンスが目の前にあるはずだと信じている。その合間に小さな2つのシルエットを追いかけている時間が今は楽しい。

18年乗った車を買い替え、3年ぶりに秋田に帰れた。ライブハウスは動員を戻し、ウォーキングのついでという言い訳で東京中の100箇所以上の銭湯・サウナ施設に足を運び、フェスや山に行くことや少しずつ取り戻した日常と共に、二足歩行を始めた男の子の運動量に驚くばかりで、発語する言葉が日に日に増えていく嬉しさと可愛さと愛おしさ、だけでは表現できない感情が、五月雨式に後から込み上げていく。来年にはもう今の君はいない。
姉はスラムダンクの映画や美術展にも一緒に行けるようになったのと引き換えに、大人びた言動と生意気な態度とマリオカートを覚え、銭湯にはもう一緒に入れない。もう立派な女性の一人として扱う必要を感じていて、嬉しさと寂しさが同居しているけれど、何かに取り憑かれたような集中力を持った君なら何だってできると信じている。自分の好奇心に素直に生きていって欲しい。僕はそれを君たちにどれだけの機会を提供できるかだ。そんな素晴らしい瞬間に日々立ち会うことができた。

今年はできたことがたくさんあった。

それだけで十分なのかもしれない。満たされることなんて多分一生ない。いまだにあのウイルスになぜか無感染で済んでいるのは不思議でしょうがない。子供たちが大きくなる前にと決めている住宅問題のタイムリミットもそろそろ近づいている。

またひとつ歳を重ね気づけば30代もラストイヤーで完全に若さはもうない。あるほうがおかしい。
ふとこの年齢の時の父親ってどんなんだったけなと思ったりもするけれど、もうすぐそれもできなくなるんだなと思う。
収入は増えているのに物価も税金も上がり続けて、おざなりにされていた政治と宗教の闇が暴露され、本当にこの国はどうなっていくのだろうと思う。それでも、宇宙、日本、東東京、好きなものは変わらない。ヨーカドーの駐車場から不意に見えた夕焼けが美しいように、答えは常に近くにあると思っている。
来年からは息子が保育園に通うことになり、また家族が新しいタイムラインになるけど、そんな素晴らしい誰にも変え難い、自分達にしかない瞬間を作っていけたらと思う。

今年も皆さまありがとうございました。
この場所での更新がこれで最後になるように、来年こそします。
良い年末年始を過ごしくださいませ。

カテゴリー: Days

2021→2022

そこにないようでたしかに存在していた、
そんな2021年が風のように過ぎ去っていった。

1年の4分の3は緊急事態宣言だった。自粛と生命の天秤の掛け合い。
ワクチンで対抗し始めた人類に対し、ウイルスは生存をかけて変異し続けるイタチごっこはまるで映画の中にいるようだ。
禁酒法のような政策に混乱し続け、沢山の娯楽や可能性を奪われ、サウナで虚しさを汗に変換させる。
不憫な飲食店にせめて協力したいと思い、できるだけランチはお店で食べるようにした。
新しい自転車で居場所を求めて街を駆け抜けても、街灯の消えた街はずっと暗いままだ。
言葉を発してはいけないライブの帰り、20時で飲食店が閉店するせいで暗闇の路上でビックマックにかじりついた時の侘しさは忘れられない。
一人暮らしの若い子達は毎日あんな感じだったのだろうか。

いくつもの分断を生み、狂乱の中強行されたオリンピックは様々なインフラや景色を変えた。
20時で消えていたスカイツリーや橋のライトアップも、五輪期間だけは煌々と点灯していた。
チケットを持っていたサッカーの日本vsフランス戦、合羽橋を聖火ランナーが走り抜ける姿を子供に見せてあげたいということも泡沫の夢に終わった。
開会式の前日、娘と区民プールに入っていたら5機のブルーインパルスが、夏の青空を切り裂くようにスカイツリーの真横を駆け抜けていった。
あれは白昼夢だったのだろうか。

滑り台の淵に膝を打ち、3日間歩けないこともあった。辛かったワクチンの副反応、数ヶ月治らない口内炎、ばね指の手術で手術台に登り、息子の夜泣きの大きさに眠れない日々が続いた。
朝起きれば大谷翔平がまたホームランを打ったニュースに驚き、思い出がたくさん詰まったSTUDIO COASTとZepp Tokyoがなくなる。
過去最高にきつかった個人案件は本当に精神的にこたえたし、休みがあまりなかったのでもう少し余裕を持ちたいとも思う。
会いたい人に連絡を取ろうと思ってやめて、会いたかった人に会えたこともある。
仕事の愚痴をこぼす相手もなく、その反動で可能性を探し続けた。いくつもの誘惑を断り答えを見つけた。
時流に左右されることなく発揮できる力をもっとつけなければ強く思う。

長すぎた緊急事態宣言が開け、仕事帰りにレイトショーで映画を観れたことが本当に嬉しかった。
息子が1歳になり歩くようになった。あっという間に離乳食が終わり、モリモリ食べて大きくなっていく。
娘の歯がどんどん抜けて、ランドセルを予約して、去年は出来なかった忘年会ができている。運動会の綱引きで優勝した。
車で流す僕の好きなバンドの曲を覚えてくれるのが嬉しくて、歌詞をひらがなにプリントアウトして一緒に歌った。
洋楽をこんなに聞かなかった年も珍しい、内へ内へとひたすら潜る旅が続く。
遠くへ行きたいと時に思い、Google mapを見ながら思いを馳せる。
夜、寝かしつけながら、日本と世界の国について、地球の成り立ちについて、宇宙と星について、娘といろんなことを話した。

思い出す微かな思い出も、一瞬で過ぎ去ったクラブハウスのブームのように、記憶に残る断片はこんなものだ。
今年リニューアルすると決めていたこのblogのデザインも、変えれないままでいる。
相変わらず12月の東京は綺麗で、街の明るさほど人は近くに感じないけど、思ってたより寂しくない
マスク越しの世界のまま、時間は淡々と過ぎ、昨年よりも確実に何かを取り戻している。
そこに置いて行かれないように年始からはまず個人プロジェクト周りをきちんと整えて、やりきれなかったことを含めてまた新しい挑戦に向けての準備をはじめたい。

年内に更新しなければならないと思いつつ、またこんなギリギリになってしまった。
2021年関わってくれた、画面越し、SNSを通して繋がってくれた皆さん、ありがとうございました。
2022年また笑ってお会いしましょう。

2021 1231

カテゴリー: Days

BRAHMAN Tour 2021 -Slow Dance-

6/28 BRAHMAN Tour 2021 -Slow Dance- at Zepp Haneda

凄まじいタイポグラフィの映像で披露された新曲が終わり、客電が点く。
呆然とした中規制退場のアナウンスが聞こえ、その場で少し待ちトイレへ行き、外へ出ると暗い空港に着陸する飛行機が見えた。
足湯のできるデッキに上がり青くライトアップされた滑走路をぼんやり眺めながら、あぁとても良いものを見たという充実感に包まれながらしばらくそこから動けなかった。
コロナ禍のライブは終わった後、どこも店がやってない。そのまま電車に乗り込み、腹ペコで家へ帰り、駅前で買った牛丼をリビングで食べるのも、もう何度目だろう。ラーメン屋に寄って一杯飲みながら友人と感想と近況を語る時間が恋しい。

静のブラフマン、いったいどんなものなのだろう。その答えを見に、2時間早退できる有給をとり羽田イノベーションシティにあるZEPP HANEDAに向かった。
天空橋の駅を降り階段を登ると沢山の飛行機が見え、テンションが上がる。ドリンクはもちろんソフトドリンクのみなので、開演ギリギリまでみんな外で飲んでいるけど、中に入ると静かで幻想的な音楽が流れ、一定の緊張感があった。いつもの十字に区切られたマスの中で見るのかと思いきや、一階も全て座席がある。

10分遅れで4人が登場し、カムイピルマからスタートする。
ステージに張られた薄い幕の向こうに映像やライティングの演出と一体となってバンドの姿が見える。シルエットしか見えない白幕ではなく透明度の高い布で、映像との一体感がとても高いものだった。それがあまりにも綺麗だったので、もしやこのまま幕を開けないままやるのかなと思いながら4曲目の終夜が終わった。
突如、お馴染みのブルガリア民謡が流れ、オープニング映像が流れた。そこからブラフマンはじめます、という恒例の掛け声もなく、そのまま霹靂へ。フジロックを思わせる豪雨の映像の中で歌われたその映像の完成度に見惚れていると、中盤のディストーションギターを踏むところで雷が鳴り、幕を切り裂くように一気に幕が開いていくと思わずみんなが立ち上がった。その瞬間、張り詰めた緊張がほぐれたように涙を抑えることができなかった。あぁこの瞬間を僕は待っていたんだ。ずっと会えなかった人にやっと会えた。そんな感じだった。

全く話さないブラフマンのライブは10年ぶり以上だ。以前はそれが当たり前だったけど、震災以降解禁したMCがなかったのは、徹底的に静と向き合った結果を今表現しているのだから、お前らも静と向き合えと言われているようだった。

MVと同じ石巻の漁港の今を写したナミノウタゲ、夕焼けに照らされた福島の海の波打ち際で踊るダンサー、ライブハウスの写真だけで構成された映像など、曲によっていくつもの演出が変わり、時折CDよりbpmを落として演奏される曲もあった。
静のブラフマンと言いつつも、ただ遅い曲だけを選曲しているのではない。激情を吐き出すという、自分たちの一番得意な武器を奪われた制約の中でもなお、曲の中身潜り新しい何かを探し、思索を練り、違う側面を引き出して届ける。それに向き合った結果がこのライブに凝縮されていた。
前日にはA Forlorn Hopeが発売されて20周年だった。ファンになって22年も経つのにまだこんなにもクリエイティブな刺激と感動をもたらしてくれるなんて、その事にとても興奮した。

静粛の世界で 静かに声を殺して踊れ slow dance
と最後に披露された新曲は、全くslowではなかったことが、とても深い痕跡を心に残した。

Craving for Distortion

緊急事態宣言下の渋谷でDYGLのライブを見た。

年始から始まった冬の自粛生活のせいで、そろそろディストーションを浴びないと気が狂いそうだった時に入ってきたライブの知らせ。当初は20時開始の予定だったので、これは子供をお風呂に入れてから行っても全然間に合うなと思い奥さんの許可どりをして、チケットを購入。
どっこい、緊急事態宣言が延長になり、ライブの開始時間も18:30からになった。きっと20時には完全に音止めをするんだろう。
とりあえず山手線に乗り渋谷へ向かう。ライブの前には、アプリで入荷を待っていたIKEAとLEGOのコラボ商品が渋谷には在庫があったので難なく購入。

この状況でのライブは僕のような単客が多いのかと思っていたけど、意外にもそうでもなく、普段通りマスクをしたまま友達とハングアウトしている人が結構多い。
外国の方もちらほら見かける。定員を50%以下に抑えたフロアは、床にガムテープで四角いマス目のグリッドが引かれていてその中に一人が収まっていくという感じで隣の客との距離が取られているので床に荷物を置くこともできる。ドリンクの引き換えも19時までのよう。

定刻通り、Let it outから緩やかにスタート。マスクをしたまま口ずさみ、首を振り、踊る。
秋山くんの言葉の一つ一つに自信があり、様々な場所への配慮があった。次のアルバムからの新曲もかなり多かったけど、どの曲も素晴らしい、何かがフックになればもっと爆発的に知名度が上がることもゆうに予想できる。日本武道館のステージに立てるくらいのポテンシャルは余裕であるし、僕自身それを見てみたい。

この前POP LIFEのポッドキャストを聞いていたら、かの鹿野淳さんは、”レミオロメン、お前らに賭けた”というコピーを書いたらしいが、今の僕には”DYGL、お前らに賭けた”という気持ちすらある。それくらい2021年のDYGLのライブは仕上がっている。

そんな轟音に包まれているとふと、自分はこの瞬間の為に東京に住み続けているのかもしれないと思った。
都市というのは誰かの目的で成り立っている。ほとんどは仕事か学校で、その合間にそれ以外の文化的なものに触れ、それが生きる力になって日々を回していく。そういうものに触れている方が自分は自分らしくいられると思ったのが高校生の頃だ。自然と寄り添うように暮らすより、自分には心地よいとも思うし、そういうものに触れていたいから、デザインを仕事にした。

近頃ではライブハウスから叩き上げられて有名になるようなバンドは少ないように思う。そもそもバンドを組まずに、PCひとつで作曲ができてしまうので、SSWという形態をとった方がフットワークも軽く売れやすい構造なのかもしれないけど、DTMでここまで心は揺さぶられない。
ディストーションには血が通っている。何かを成し遂げたい若者のギラギラとした意思を感じる。
それがもう古いとか言われる時代なのかもしれないけど、そんなことはどうでも良い。
自分の琴線が震えるかどうかの問題であって。

そんなことをつらつら考えながら箱を出ると、時短営業により路上でストロングゼロで何かを誤魔化す若者が沢山いる。
立ち飲み屋には入れないほど人が溢れている。それを横目見ながらTSUTAYAで本を二冊買い、お腹を空かせて銀座線に乗り帰路についた。

時代を切り裂くのはいつだってロックバンドのディストーションギターだ。
それをずっと信じている。

03/21/2021

10 years after

10年前
当時僕は並木橋の壁の黄ばんだオフィスで、今となっては上場したとある事業会社の下っ端としてコンテンツ更新をしたりたまにデザインしたりするよくわからないポジションの仕事をしていた。
これがすごくやりたいわけではないし、チャンスがあるようでない、頑張り方がわからない、暗中模索の真っ最中。
そろそろ他の町に住んでみたいと実家を出たばかりで金もなく、楽しみといえばラジオとたまにある友達のライブに行くことくらい。毎日が生きることで必死だった。

そんな時にあの揺れが起こった。
入ってきた地震の規模を伝える数字に驚愕し、隣の席の同僚がつけたワンセグの小さい画面で街が波にのまれていく映像を見ても、現実のこととは到底受け止められなかった。
とんでもないことが起きている。
あわてて外に出ると明治通りは人で溢れていて、建設中のヒカリエの上に乗ったクレーン車が落ちそうなくらい揺れていた。
キリのいいところで帰っていいよと言われ、こんな時に売れるはずがないだろと思いながら適当に週末分の更新作業をして、渋谷から歩いて世田谷の自宅までとぼとぼ歩いて帰り、同棲していた彼女(今の奥さん)の帰りを待った。
木造アパートのメゾネットの上で寝ていたので、余震が怖くてしばらく下のリビングに布団を引いて寝ていた。

翌日スーパーにいくと備蓄用の食料が無くなっていて、少しずつ世界が変わっていくのを感じた。
福島原発が水素爆発を起こし、計画停電が実施された。
電気が使えない中、暗い部屋の中で彼女がつくってくれたおにぎりを2人で毛布にくるまって食べた。
やがて日本はチェルノブイリになって東京に住めなくなるという説が流れ始める。
清志郎さんやヒロトが歌っていたから原発のことは知っていたけど、自分ごとに考えていなかったことを後悔した。
放射能という見えない敵と戦うのはコロナに似ているけど、目の前の食べ物や空気が安全かどうかわからないのは想像できないほど怖かった。
原発ほど世の中を分断したものはないと思う。
震災の話はいつのまにか原発の是非に発展し、TPP、安保法制、改憲、政権批判へと変わっていく。
それでも上がらない投票率にジレンマを覚える。
ただ今では野菜の産地を選ぶように、発電の種類で電力が選べるようになった。

自分が指針にしている人たちはどんどん支援のアクションを起こしていった。物資を集め、曲を作り、プロジェクトを設計する。
陸前高田、南相馬、宮古、女川、南三陸、塩竈、知らない土地の名前をどんどん覚えていった。
大好きなバンドが解散して、解散したと思っていたバンドが復活した。
一言もMCを話さなかった人が話すようになった。

この時ずっと思っていたのは、そんなクリエイター達に対し、何もできない自分の劣等感だった。
災害関連の電子書籍アプリを会社で作って無料配布したくらいで、体力はあってもボランティアに行くお金もない、アイデアはあっても協力してくれる人もいない、そんな現状に対する想いや将来への不安が積み重なってか、一か月後ストレス障害になり、精神科に駆け込むことになる。
しばらくはそんな精神状態を誤魔化すように、友達のライブやレコーディングに遊びにいくことで気を紛らわしていてとても遠い被災地のために何かできるような状態ではなかった。あの時受け入れてくれた友人には本当に感謝している。
不安を払拭するように無心で手を動かして、とあるコンペで入賞することができ、それが少しの自信につながっていった。
日の丸をデザインに使ったのはこの年だけだ。

数ヶ月後、無事転職が決まり、その仕事を辞めた。
人の本性というものは緊急時ににでてくるもので、当時社長が従業員に吐いた言葉や行動とかは許せるものでは到底なく今でも忘れていない。
こんなところで死んでたまるかという思いだった。

三か月後に友人のバンドのドライバーとしてハイエースで仙台へ行った。
オールナイトのライブイベントに出演したのを見届け、その時は弾丸で帰ってきてしまったけど本当は海岸の方を観に行きたいんだよなと思いながら帰ってきた。
一年後仙台に行き、ちゃんと被災地を見に行った。
奥さんのアパレル時代の同僚を訪ね、当時の話を聞き、亡くなった人から電話が鳴ることや、いるはずのない人影を見た話が頻出していることを聞いた。
まだ死んだことが自分でわかっていない人が沢山いる。瓦礫だらけの石巻の海岸線を走っていると彼が育てたであろう仏花でいっぱいだった。
喪失が自分の体を飲み込んでいって涙が止まらなかった。
映像で見るより自分が想像していたのよりも何倍もすごい世界だった。
なんでこの人たちがこんな目に合わなきゃいけないんだろう、帰りの新幹線でずっと考えていた。
その時から毎月、給料から小額だけど決まった額をとある場所に寄付するようになった。

そして10年経ち、幸い僕はまだ生きていて、あの時アクションを起こしていた人たちとほぼ同じ年齢になった。
自分はキャリアが人より3年遅れていると思っているけど、今なら有事にも人に何か貸せる力はついたのかなと思う。
思えばこの10年の根幹にあるのは、当時感じていたあの劣等感を払拭するように生きてきた。
あの頃の自分に言いたいのは、もう少しすれば4年後にやりたかったことができるようになるし、素晴らしい人たちとの出会いもある。
守るものが増えていくからそれを忘れるなと。
いつかまた、子供を連れて東北に行きたいと、東京からそんな風に願いながら今日を過ごしました。

2021.03.11

カテゴリー: Days